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会報プリズム

会報プリズムvol.64より(2008年12月20日発行)

「AIGコレクションー印象派の光、エコール・ド・パリの夢」に寄せて

伊東順二氏
富山大学芸術文化学部教授、美術評論家
1953年長崎県生れ。1980年早稲田大学仏文科大学院修了後、仏政府給費留学生としてパリ大学及びエコール・ド・ルーブルに学ぶ。83年帰国までパリでフィレンツェ市庁美術展部門嘱託委員、「フランス現代芸術祭」副コミッショナーなどを歴任。帰国後、美術評論家、アート・プロデューサー、プロジェクトプランナーとして、展覧会の企画監修、各種事業のプロデュース、コンペティションの企画実施、都市計画、企業や公共団体の文化事業コンサルタントとしても幅広く活躍。株式会社JEXT代表取締役を経て、2004年から長崎県美術館長、2005年から富山大学芸術文化学部教授。

画期的であった印象派

 展覧会で印象派の全容を紹介しようとするのは大変な困難です。今、印象派もエコール・ド・パリの作品も最近のガソリン以上に高騰して、日本にとってジャポニズムの研究や作品収集は大切ですが、日本の美術館ではこれらの作品の購入はなかなか無理です。では、海外から作品を借りて展覧会を開催しようと思ってもこれまた大変です。保険会社から最高の信頼を得ている国立の美術館でも、モネやゴッホの作品を借りると、100億円の評価に対して約3000万円の保険料が必要です。1枚でも100億円の絵があると、全体で50点、100点となる展覧会ではものすごい費用になります。以前、東京都現代美術展のイタリア現代美術展では、モジリアニの70億円の作品1点に2000万円の保険料を払って展示していました。美術館としては、いくら日本人が印象派を好きでも、やらなくてはならない展覧会でも、お金がないと出来ません。そういう事情の中で、今回、これほど多くの印象派やエコール・ド・パリの作品が一堂に会することは素晴らしいことです。
 この機会を利用して、今日皆様にお話したいのは、印象派がどういうものか、いかに画期的な運動であったかということです。例えば、ゴーギャン、スーラを頭の中に思い浮かべてください。なぜ、発表当時、あれらが前衛だったのでしょうか。
 例えば、20世紀の芸術家マルセル・デュシャンは、1917年に、逆さにした男性用便器にR.マットとサインし、「泉」と題して、ある展覧会の公式コンペに出品しましたが、開幕した途端に引きずりおろせと撤去されました。この作品が、今日では20世紀の新しい美術を創ったといわれています。近代美術館の常設展や瀧口修造コレクション、金沢21世紀美術館の多くの作品なども、彼から多くの影響を受けています。
 「泉」の発表当時、デュシャンが言おうとしたことは、芸術は物ではなく、それを見つめる人間の感性の表現であり、視点である。芸術は哲学というものの表現であるということでした。絵をうまく描くことが大事なのではなく、絵を描くことに哲学を感じること、哲学的メッセージが芸術を左右すると彼は訴えたのです。

ダ・ヴィンチの影響

 1950年代になって、芸術は全ての既成概念から離れるべきだというネオ・ダダ運動がアメリカで生まれ、デュシャンが再評価されると、彼は「50年前に私が冗談で作ったものが、今、芸術というらしい。しかし自分がこういう芸術のあり方を示したのではない。自分が考えて作ったのではなく、芸術とはそういうものだ。なぜなら、古い芸術というものの成り立ちの上に存在するから」と言っています。これは彼なりの現在へのメッセージであります。
 私は、その考えを作った一人がレオナルド・ダ・ヴィンチであり、当時は前衛といわれた印象派を理解するためにはルネサンスまで遡らなければならないと思います。
 たまたま、テレビの仕事の後、女優の山口智子さんと食事をすることがあり、ダ・ヴィンチについて3時間話しました。「私のアイドルはダ・ヴィンチである」と。現代美術が専門の私がなぜダ・ヴィンチか、それはダ・ヴィンチの考え方はデュシャンを思い出させるからです。つまりダ・ヴィンチは、色を塗るだけ、もしくは与えられたものを絵に描くだけが芸術でなく、絵画、彫刻を単なる「物」とは違うものにすることが芸術だと主張しました。
 宗教絵画は、キリスト教の教えや宗教的な場面を描くという姿勢だけでなく、それを描いている者の確固とした哲学の表現を持たなければいけないとダ・ヴィンチは思っていました。当時の時代背景として、ナポリ沖でギリシャ時代の彫刻や文献が発見され、失われた記憶としてのギリシャ時代が見直されようとしていました。土着のヨーロッパ文化とは?ギリシャ時代とはどのようなものなのか?
 ギリシャ時代の哲学者プラトンとアリストテレスの考えがルネサンス期の芸術に影響を与えています。プラトンは、人間としての生き方、神のあり方、社会におけるアカデミー(大学)のあり方などを摸索しました。その後、彼の弟子アリストテレスは、詩学を示し、芸術の規範とは哲学の表現であり、そしてそれが人間のための哲学であると唱えました。さらにアリストテレスは、哲学を志す人々をベースにした秘密結社アカデメイアを作り、自分達の考える芸術のあり方や、哲学の表現としての絵画や彫刻を目指しました。このような芸術の概念が示されるまで、アルピザン(職人)はいましたが、芸術家というものは存在しませんでした。アルピザンと一線を画すために、アルピスト(芸術家)が確立されたのです。その象徴的な絵がダ・ヴィンチの「モナ・リザ」であったと思います。
 パリでデュシャン研究をしていた学生時代、友人に「モナ・リザをどう思う」と聞かれ、「まあまあだね」と言いました。すると、ルーブルのデッサン部長で後にミッテランの最高顧問になった人が「火曜日10時にルーブルにいらっしゃい」と、休館日に開けてくれて、モナ・リザと2人だけにしてくれました。以下はその時の思いを後に書いた文章です。

「時を越える光」

 ルーブル美術館の大ギャラリーから少し入った薄暗い部屋に、その美女は静かに佇んでいた。休日の美術館は静寂しかなく、人の声もほとんど聞こえない。30年近く前、当時のデッサン部長の特別な計らいで、私は絵画史上最高の美女と2人だけの時間を持つことが出来た。その幸運の大きさも十分に自覚せず、ただ、名画を拝見するくらいの意識しかなかった私には、その後の濃密な時間が、自らの芸術観を根底からかえてしまうとは予想すらしなかった。
 驚きは既に斜め前方から近づく時に始まった。なぜなら、閉館後の照明を落とした室内で他の作品が暗がりの中、その存在感を喪失しているのにもかかわらず、モナ・リザの不思議な微笑を湛えた顔がはっきりとした輪郭を持って、私の視線と向き合っているのだ。
 その肖像画は、暗がりに威光するというよりむしろ、弱い自然光を楽しんでいるかのように、様々な角度に光を反射させているようにも見えたのである。
 正面から立ってみると、ロマン主義の詩人テオフル・ゴーテが「翳りをおびた奥深い怜悧なその眼差しは、誘うような表情に満ちて、あがない難く人を惹きつけ、人を陶酔させる。」と語ったような陶酔感が私をとらえて離さない……
ようやくその呪縛を振り払って、絵画面を観察してみると、実は美しい顔は無数の規則的なひび割れに覆われていて痛々しいぐらいである。しかしそれが実はこの絵の秘密の一部を教えてくれるのである。
 モナ・リザは板の上に描かれていて、その上に石膏の下地が施されている。そして特に顔や肌の部分にあっては油絵具の上澄みだけを使用して、丹念に、少しずつ薄く薄く塗り重ねるといういわゆるグレース技法というのを使用している。それが規則的なひび割れが意味する驚くほど均一的な面とボカシを実現している。ダ・ヴィンチの言うところのスフマート(ぼかし)技法であり、無限のグラデーションを実現している。
 そしてまた背景の空気遠近法が使用されている不思議な風景には、反対に絵具のわずかな盛り上げと、筆触の勢いを残して、光の強弱とともに人体とのコントラストを鮮やかに写している。おそらくダ・ヴィンチは光をその手に入れた初めての画家ではないだろうか。ともかく、超絶的な技法とたぐい稀なる美が、ルネサンス美術のすべてがここに集約され、時空を越えた芸術を生み出している。
 それ以後、私は絵画を時代で見なくなった。真の芸術作品は時を越えて生きているのである。ダ・ヴィンチはこの絵を決して手放すことなく、動乱の中のイタリアから最期の安住の地、フランスのロワール地方まで携えている。モナ・リザは彼の死後、最大の理解者、フランソワーズ一世の手に渡り、フォンテンブロー城に飾られていた。そしてこの一枚の絵画の魅力はフォンテンブロー派の画家達を通して、フランス絵画の華麗な歴史を引き起こしたのだ。

浮世絵が印象派に与えたもの

 つまり、デュシャンが言った、あるしっかりとした古人に由来する哲学を背景とした表現であると同時に、「モナ・リザ」には絵画表現における重要なものが含まれています。だからこそ「モナ・リザ」は完成することはなかった。なぜなら自然は変化するから。ダ・ヴィンチはスフマート法やグレース法を駆使して変化する光を表現し、そうして描かれたモナ・リザの背景についてはさまざまな文献で言及されています。ルネサンスに由来するアカデミックな構造的一点遠視法だけでなく、それにプラスして空気遠近法と彩色、光のグラデーションも駆使したのです。
 デュシャンはダ・ヴィンチの芸術の哲学的な部分を過激な形で示したと言われている。そして、モネを初めとする印象派の光の表現にも、あらゆる検証が表れています。浮世絵の影響だけでなく、“現実を再現する”というその当時の絵画が忘れてしまった原点を示そうとしたのではないかと私は思います。
 1648年にルイ14世が王立絵画・彫刻アカデミーを秘密結社から公認組織とし、王侯貴族がこれを開くようになります。それはルネサンス期のダ・ヴィンチらの思想に基づいた組織でしたが、やがてその原点からどんどん離れていったことを不満とする画家達がいました。
 また、当時のヨーロッパのアカデミーには、作品の発表の場として設けたサロン(官展)に入選しなければ画家として認めないという風潮もありました。
 19世紀には産業革命が起こってブルジョアジー(資本家階級)の力が増し、王侯貴族が支えてきた絵画界に新しい市民スポンサーが登場してきました。19世紀後半にはパリに革命が起こり、市民達の力が生まれていきました。しかしそのような新興の市民の中にも未だ自分の価値観でなく、サロンで入選した肖像画や歴史画を求める者がいる中で、モネら印象派は、外に出て自然の光を描き、神の世界でなく絵画のうえで“現実を再現する”ことをめざしました。
 そのような時に突然表れたのが日本の浮世絵でした。北斎の浮世絵の描き方は誇張ではありません。たとえば、赤富士は五千分の一秒のシャッタースピードで特定のポイントから写真を撮ると、この状態になることが証明されています。また、波の向こうに見える富士山と近景の人との対比も、遠近法を知らなかったのではありません。富士と波を描くことによって、物質では描ききれない風や時間を伝えているようです。モネは、このような北斎の手法でスイレンを描くようになります。その影響は、筆触分割法を用いて原色に近い感触で光のグラデーションをより美しくし、版と色を重ねるという手法に、見ることができます。
 スーラの点描法も点によって発する色の光に触発されたものであり、ダ・ヴィンチの方法を科学的に研究したものです。
ゴッホの1888年の作品「夜のカフェテラス」は、制作の2年後に彼が自殺したことを思うと、胸がつまされる絵です。まもなくゴーギャンとともに南仏で暮らし、光に満ちた人間的な絵画を描こうとしていた頃の絵で、道路と黄色のカフェテラスは遠近法で街の奥行きを表し、その奥の闇の豊かさは未来を感じさせます。ゴッホは、構造的な意味で、彼が愛した浮世絵と西洋画の合体を果たした作家だと思います。とはいえ、ゴッホは、こうした絵をだれかに強制されて描いたわけではなく、そのための代償はあまりにも大きかった。
 ものにはすべて道理があるといわれますが、印象派の画家たちは、18世紀、19世紀の西洋絵画を打ち破ろうとしなければならなかった。そして、エコール・ド・パリの画家たちも、他の文化も取り入れつつ、“現実を再現する”という原点を示そうとしたこと。そのようなつながりの中で、デュシャンのあの便器が生まれたと思います。芸術の素晴らしさはどこにでも通じ、つながりがあります。
 印象派から後期印象派、エコール・ド・パリの作品を一堂に見る今回の展覧会は、素晴らしい芸術の歴史を語ってくれると思います。

*この抄録は、平成20年7月26日、企画展「AIGコレクション―印象派の光、エコール・ド・パリの夢」にあわせて行われた講演会の内容から抜粋しました。